<第12回><最終回>

<TOKYOウエスタン古事記・作 藤本精一>

<無断、転載はかたくお断りいたします。>

<前回まで/第1回第2回第3回第4回第5回第6回第7回第8回第9回第10回第11回

「いや決まってません」と言うとその人は「関口てゅうアコ弾きがいるんだけど、そこでメンバー欲しがってるよ」と言った。それでその人に紹介してもらって、関口さんに会いに南京町のウラ通りの、マウント フジという占領軍専用のダンスホールへ行った。関口さんは僕に「きみ、ギャラはいくらでやってくれるの」と言ったので「ツェーゲーです」と言うと「ぢゃいいよ」といった。それで僕はそのバンドに入ることになった。そのバンドではメロはアコとオリンしかいないので適当にふたりでメロを分担して演奏した。たとえばAABAという様な構成の曲のときは、僕が初めのコーラスのAのところをやったら、関口さんはBの所をやり、次のコーラスではその反対にやるのです。ですが、アメリカの最新の、今迄聞いた事もない様な曲を、ヒットキットという本を見ながら演奏するのですから、とても大変でした。ある時関口さんは「ねー、ヴァイオリン、だーだー弾きにすると外人喜ぶよ」と言った。その時はどう云うことか解らなかったが、多分、後に僕がやるようになった、ウエスタンの弾き方のことだと思う。

そして結構ぼくはその仕事が気に入ってたのですが、ギャラの日になって関口さんは「はい」と言って僕に千五百円呉れた。僕が「あとの分はいつですか」ときくと「エッ」と言って彼はびっくりして「それ、全部だよ」といった。僕は前のバンドでは一日いくらでやっていて、百五十円貰っていたので、初めにギャラを聞かれたとき、「ツェーゲーです」と言ったのですが、彼は一ヶ月千五百円のことだと思っていた。僕がバンドの世界に慣れていない為に起きた手違いでした。でも、ひと月千五百円では安すぎるので、やめて、又ヤミ屋をやっていた。しかし、数日を経ずして、あるバンドから一緒にやらないかと誘われた。

<お祭りバンド> その頃、お祭りの時は各町内毎に舞台が出来て、必ずのど自慢大会というのをやった。そして、今みたいにカラオケなど無いので、アトラクションも兼ねて、大抵バンドを呼んだ。そのバンドはそういう所を回ってあるいては、貰った謝礼をみんなで山分けする呑気なバンドだった。しかし方々の町でやってたら人気がでてきて、僕もそれ等のところでは有名になった。それで女の子のファンなどもできて結構楽しかった。その頃神奈川県の主催する芸能コンクールがあって、それにバンマスの知り合いの活動の弁士みたいな事をする人と組んでセリフ入りの<愛染かつら>というので出たら三位に入賞した。その時一位だった人はだれだったか、のちに有名な歌手になった。しかし秋も過ぎた頃になると、そのバンドの仕事も少なくなってしまった。それで僕は方々のバンドのダンスパーティーなどの仕事に参加して回った。その頃はダンスパーティーがとても流行ってたので、結構いい収入になった。しかし、ある時、どっかの会社の忘年会のダンスパーティーで一緒にやったアコーディオンの人から「今度バンドを組んで南京町のキャバレーでやるんだけど一緒にやらないか」と誘われた。とても人柄が好さそうな人だったので、僕はやる事にした。そのキャバレーは、南京町の横浜公園寄りの入り口を入って、一つめの角を右に一寸行った所にあって亜細亜とか何とかいった。

実はそこから僕が前に書いた、東京ウエスタン古事記の最初のページにつながるのです。

<今回でTOKYOウエスタン古事記〜私のツレヅレ草〜の連載は終了です。次回からは続編の連載を予定しています。楽しみにお待ち下さい。>

目次に戻る