第5回

元ワゴンマスターズ・藤本精一

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<ワゴンマスターズ> その頃、ラジオ東京の番組で、イブニング・コンサートというのがあり、これには、ワゴンマスターズというバンドが、隔週に出ていた。(後に毎週になった。)スポンサーはカワセ洋装店だった。我々の所にも放送の話は、無くはありませんでしたが、なにせ、忙しいので、みな冷たく断ってしまいました。でも僕は、放送には魅力がありました。・・・・・

ある日曜日の朝、長者町五丁目の交差点の一角にある、ホット・メスという所に出演していると、休憩時間に、ぞろぞろと、クラブのボスと一緒に入ってきた日本人がいた。僕はその時、みんなのコカコーラを運んでいるところだったが「ヤア」と言われたので、頭を下げて挨拶した。ワゴンマスターズの面々だった。

数日後、ワゴンマスターズの人から電話があって「お話したいことがありますので、新宿南口から甲州街道に沿って初台方向に少し行った所の、何とか云う中華ソバ屋に、明日来てくれませんか?」と言ってきた。

翌日、僕は、彼らが指定した場所に出かけた。その中華ソバ屋はすぐわかった。中に入ると、ワゴンのみんなが居て「わざわざどーも。」「いやいや、」てな具合で、席につくと、「何を食べますか?」と聞かれた。僕は食事はバッチリ食べる主義なので、自分で払うつもりで、いろいろ注文した。後で聞いたのですが、ワゴンの人達は、僕の食事があまりゴーセーなのでびっくりしたそうです。(ほんとかなー)それは今でも語りぐさになっています。

彼らの話は要するに、一緒にやらないか、と云うことでした。その後、このバンドのOBとか、いろいろな人とあって、ギャラなどの事を話し合った。どーも、このバンドでは、演っている人よりも、その人たちの方がエライようでした。その人たちは「いま、ワゴンの人たちのギャラは4万位だが、君には、いつも1万づつ余計に払うがどうか?」と言った。それで僕は「ちょっと考えてみます。」と言って帰って来た。

家に帰って、その時、一緒に暮らしていた、非常に頼りになる、雙葉出のオバーチャン(父の母)に相談すると、まあ少しくらいギャラがへってもなんとかなるから、そっちにいったら、と言うので、僕はワゴンにいくのを決めた。

<テレコ>その頃のウエスタンバンドは、どこも、向こうのレコードをそのまま真似て演奏していたので、アレンジが皆同じなので、すぐに僕も役にたった。ただ、前出のイブニング・コンサートでは、毎回、新曲をやる事になっていたので、よく原田さんのところに集まって練習した。それには、前のバンドの時、僕が買ってあったテープレコーダー(10万位した)と云う新兵器がとても役にたった。毎朝、WVTRからめぼしい曲を取り、あとで聞いて、マネをする取り方でした。また、その頃、僕の他に、日本人で、テープレコーダーを持っていたのは、知ってる限りでは、ウイリー沖山さんだけでした。しかし、彼のは巻き戻しが利かなくて、手で戻していたような気がします。

その頃、国際劇場では、地上最大のジャズショウとか何とか云うのをよくやってて、僕らも出演していました。それは、はじめ東京の国際劇場でやって、それと同じものを、大阪の大劇でやるしきたりで、バンドはいつも同じメンバーで、それが移動するのですが、ダンスの方は、東京ではSKD、大阪では、OSKがやる事になっていました。そこで、東京で演っているのを、テープに入れて大阪に持って行き、それをOSKに聞かせて、練習させたいので、僕のテレコを貸してくれと言ってきた。断りにくかったので貸して上げたら、なかなか戻ってこないで、返ってきた時は、大分ボロボロになっていて、がっかりしました。その後、そのテレコは、ある仲間に貸したら、無くしてきてしまった。一説には、セブン銀行にいったのではないかと言う人もいますが、さだかではありません。<つづく>

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