ドラムの家は、元町のトンネルを越えて、本牧方面に少し行ったところの右側の丘の上にあった。僕が行ったとき、もう皆そろっていて、練習を始めていた。練習といっても、何しろ楽譜も、レコードも何もない時代なので、毎日 W.V.T.R(FENの前身)で、朝の十時頃やっている、ウエスタンの時間に、各自、ラジオを聴いてそれを覚え、ギターのコードをつけて、それから皆で合わせせるしかないのです。とてもそれは、大変な作業ですが、それが即、収入に返ってくるので、皆、ハリキッテやっていました。ですが、二・三年前までは、まさか英語など話す事態になろーとは、思ってもみなかった人たちなので、歌詞の方はかなりいい加減なものでした。
ある日、ボーカルの中村さんの歌詞ノートが控え室のテーブルの上に置いてあった。次のステージまで、大分時間があるので、退屈まぎれにペラペラとページをめくってみた。テネシーワルツの九小節目にアイ エンター ダスティンと書いてあった。どういう意味かなと思っていると、丁度そのとき、中村さんが入ってきたので、「これはどいいう事なんですか?」と聞くと、「なんだか、わかんないんだけど、ラジオでそういってんだよ。」との事。(本当はアイ イントロデュースッド ヒムだった。)またある時は、中村さんが、アイラヴ ユー ソー マッチを歌っていると、ニコニコしながら兵隊さんが近寄ってきて、「そこは、イッツ ハート ミー じゃないよ、イット ハーツ ミーだよ。」と、教えてくれたりもした。しかし、そんな具合の英語なのに、何故か、このバンドはやたら米軍基地でウケていた。
このバンドに入ってびっくりしたことは、今まで、一月働いて、五千円位だったのに(それでも暮らせた)一日行くと千五百円もくれるのです。その上、食事や飲み物がクラブから出るし、また、兵隊さんから、差し入れがいっぱいあるし、アンコールで時間をオーバーした時など、とりまきの兵隊さんが、テンガロンハットを持って回ると、その日のギャラより多いドルが集まったりした。
このバンドには、幸せなことに、御贔屓が一杯居ました。ある人は、マイクに吊すバンドネームの入った垂れ幕みたいな物を持ってきたり、又、別に人は、胸につけるワッペンを作ってきてくれたりもしました。ちなみに、このバンドの名前も、ファンの兵隊さんがつけてくれたのだそうです。
そうこうするうち、バンドの名前が売れてきたせいか、週二、三回だった仕事が四、五回になった。当然、収入も多くなって、目出度いことなのですが、バンドの中には、あまり仕事が多いのを歓迎しない人も居て(昼間なにかやっている人はそうかもしれない。)アコとベースが、辞めたいと、言い出した。それで、のこり組の人達が「いいアコいねーかなー、オリンちゃん(僕のこと)」と僕に持ちかけた。 (つづく)