藤本精一(元ワゴンマスターズ)

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第3回

それで、前の年のクリスマスの夜、伊勢佐木町のあるクラブのパーティで一緒にやった、柳田くんというアコ弾きを思い出した。その夜、他のメンバーが『今日来るアコは、アドリーブがやたら上手いぜ。』と言っていた。僕はその時、彼の演奏を聞いてみて、随分ハデだなあと思った。それに性格が調子いいし、かなり自己顕示性もあるしハッタリがあって、素人をけむりに巻くのが上手そうに思った。それで、我々のバンドには、丁度いいなと思って捜すことにした。

先ず、あの日のバンドのメンバーの一人に当たってみたら、すぐわかった。その人の話では、彼は今、吉野町を弘明寺方面に向かってちょっと行った、左の方にある、国際劇場というストリップ劇場のオケボックスでやっているとの事。それで、僕はさっそく彼を楽屋に訪ねた。丁度、幕が開くところだったが、彼は『どうぞ、客席でみててください』と言って、案内してくれた。ステージではちょっとエッチだけれど、なかなか洒落たコントをやっていた。(今みたいにエゲツなく無い。)中年の男性にお妾さんが『はやくタテてよ(家のこと)』とせがんでた。男は『もーピンピンに立ってるよ。』なぞとけっこう面白かった。なんやかんやあって、彼は我々のバンドに来ることになった。

<アコちゃん>                                            彼の名前は、柳田クニ雄といった。その当時の日航の社長と同じ名前なので、(字が違うが)それを言うと、『あーあれは叔父です。』との事、若いのに、とても世間慣れしてて、あたりはいいが、ちょっとずぶとそうでした。(女性にも慣れてた。)彼はダブル・イーグルという曲が得意だった。彼がそれをステージで演奏すると、兵隊がバカバカしいぐらい、興奮して盛り上がった。そして、我々のバンドにとって、強力な戦力になった。

<スクエア・ダンス>                                         毎週火曜に出ていた、本牧のシーサイドクラブというシビリアンのクラブでスクエア・ダンスをやる事になった。コーラーという号令をかける人がいて、(アメリカでは、とてもいい内職だそうです。)その人が、スクエア・ダンス用の曲の譜面やレコードを貸してくれた。お陰で僕のソロの曲が俄然、多くなった。また、そのコーラー(将校だった。)との関係で方々のスクエア・ダンスのパーティに呼ばれるようになった。それは大抵、夜半から朝まで将校クラブで行われた。それで、日曜日などは、朝は長者町五丁目のホット・メス、午後はゼブラ、夜はエンジニア・クラブ、夜中はホワイト・エンサインと、4カ所もやる事になった。だから、その日一日やれば六千円で、当時のサラリーマンの一月分であった。

<録音機>                                              ある日僕は、神田のデンキ屋で、カッター式の録音機を見つけたので買った。それで何の曲でも、ラジオからコピーできるようになった。その頃、いつも一番多く注文されていた曲でオレンジ・ブロッサム・スペシャルというのがあって、それまでラジオでやっているのを、何度も採ろうとしたが、どうしても採れなかった。しかし、この文明の利器のおかげで苦戦の末、採ることができた。そして、この曲はバカウケになった。(・・・つづく)

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