<TOKYOウエスタン古事記>

<元ワゴンマスターズ・藤本精一>

前回まで/第1回・第2回・第3回・第4回・第5回・第6回・第7回・第8回

<無断転載、お断りします。>

<僕のおやじ> あれは昭和十五・六年頃でした。僕が音楽をやりたいと言い出したので、父が彼の親友のミュージシャンのところへ、いろいろと相談にのってもらおうと、僕を連れて行った時の事でした。親父が道すがら「なあ、精一よ、友達にカルテットをやってるのがいるんだけどなあ、一人死んぢゃって出来なくなっちゃって困ってるんだ。」と言った。その頃、僕は親父に対して少々反抗的だったので、「でもフメンがあるんだから、誰か入れば出来るじゃない。」と言った。だけど、それは僕が間違っていた。音楽というものは、そんな簡単なものではない。僕はあんまり親父が好きでなかった。何故好きでなかったかと云うと、彼が僕の理想像の厳父と、およそかけ離れていたからです。その頃の僕はロマン・ローランとか、ベートーベンとかワグナーなど、威勢の良いのに憧れていた。ある時、何かの話の途中で、父が「精一、なあ運命というものには、逆らえないよ。」と言った。僕はそういう卑怯な言い方が嫌いだったので「運命なんて打破すりゃいいんだ。」と言うと、「いやできない・・それは自分を誤魔化して逃避しているだけだよ。」と言ったので僕が「お父さん惰夫だ」と言ったら「そうかなあ・・惰夫かなあ・・。」と言った。その頃僕は家中の戸棚など引っ掻き回して何か面白い物をさがすのが好きだった。ある日、親父の古い日記を発見したので、失礼して読んだ。そしたらあるページに、僕は心のルンペンだ。・・・環(彼の妻の名)は可愛い顔をして寝てる・・幸せにしてあげなきゃ、と書いてあった。僕はなんて惰弱で情けない男だろうと、その時はがっかりした。でも、今になって考えると、あんな時代に(世を挙げて戦争に向かって突き進んでいた。)あんな事を書くなんて、面白い人だと思う。

<占領軍が来た日> その日は朝早くから、グラマンが勝利を誇示するかの様に、爆音を轟かせて飛び回っていた。僕はその時住んでいた、うちのオフィスビルの屋上に上がってみた。コンクリートの床の上には、焼夷弾が三個、床を焦がして、燃え尽きて転がっていた。そのうち、本牧方面から沢山のジー・エム・シーが兵隊を満載してやって来た。僕は急いで階段を下り、表通りに出てみた。真っ赤に日に焼けたアメリカの兵隊が、トラックの荷台の上に立ち上がって歓声を挙げていた。捲土重来という言葉があるが、重来ではないが、まさに捲土してやって来た。それからしばらくして、表の方で生の音楽らしいのが聞こえて来たので表に行ってみると、メリケン波止場の入り口の四つ角の真ん中にある噴水の前で、米軍の軍楽隊が(埴生の宿)だとか(ホームオンザレンヂ)など和やかに演奏していた。そして兵隊さんも町の人も一緒になって、一曲終わる毎に盛大な拍手を送っていた。<次回に続く>

目次に戻る