<TOKYOウエスタン古事記>

<元ワゴン・マスターズ/藤本精一>

第11回

<無断、転載はお断りいたします。>

前回まで・1回2回3回4回5回6回7回8回9回10回

横浜から相模鉄道に五十分ぐらい揺られ、それからまた一里ぐらい歩いて行った所で、薩摩芋を十貫目買った。それを麻袋にいれ兵児帯で背負って、また駅まで歩き、買い出しの人でゴッタガヘした電車に乗って帰ってきた。とても大変な様ですが、さいわいお天気も良かったせいもあって、気持ちよくて楽しかった。翌くる日僕は、隣のおじさんの真似をして、弘明寺のヤミ市へ行って、前の日に買った芋を、道端に並べてミセを張った。すぐに売り切れてしまった。交通費をいれても倍ぐらいの値段で売れた。それで僕はヤミツキになってしまい、お天気さえ良ければ必ず買い出しに行く様になった。しかし、五回か六回目の時、オマワリさんに捕まり、売っていた物を全部取り上げられてしまった。それでその次からは、売場所から少し離れたとこに品物を置いておいて、祖母にみていてもらい、少しづつヤミ市に並べるようにした。

<子供会>僕たちが住んでいた家の大家さんの息子さんは、早大生でしたが、町の子供を集めてはボランティアで、人形劇を見せたり童話を聞かせたりするグループに入っていた。そのメンバーには、その町の警察署長の娘さんや、元海軍兵学校の生徒などがいた。そして会場はケイサツの中とか町内会の詰め所などだった。ある時、(子供まつり)とか何とかというイベントを町内会事務所の前の広場でやる事になった。それで宮沢賢治の詩に曲をつけて、子供たちが歌ったり踊ったりショーをやりたいので、僕に作曲をしてくれと言ってきた。それはたしか十曲ぐらいだったが、なにしろヒニチが無いので急いでくれというので、僕は一日で作ってしまった。そしたら子供会の人が作曲料だといって千円持ってきてくれた。これが僕の音楽で得た一番初めの収入である。(一ヶ月五千円で楽に暮らせた頃のハナシです)それから毎晩の様に、出演する子供たちを町内会事務所に集めて、歌の練習をした。皆がよく歌える様になるまでには、幾日もかかった。その後、ダンスの先生をやっていると云う仲間の女の子が、ダンスのフリツケをしてくれて、何回も練習して、なんとかイベントの日までには間に合った。そしてともかく、町内会の広場のステージはセイダイに終わった。

<塞翁が馬>いつも祖母から聞かされてた話で、塞翁が馬というのがあるが、人間、なにが幸いするかわからない。占領軍にウチをおん出されたお陰で、僕の音楽の仕事は始動しはじめた。子供会のイベントのため、何回も町内会に通っていたら、町内会の会長の息子と親しくなった。そして彼は、あるレコード会社のオーディションのためのコンクールにでるのだが、一人では心細いので、一緒にやってくれと言われたので引き受けた。それでそのコンクールにでた。彼は一次審査には通ったのだが、二次には落ちた。楽屋に帰るとある興業社の人が僕を待ち受けていて「貴方、明日あいていますか」ときいた。「ハイ、あいています」と言うと「白楽の映画館のアトラクションなんですけど明日から一週間やってもらえないでしょうか」と言った。それは主に歌の伴奏だと言った。僕はやることにした。翌日、劇場の楽屋へ行くと、一緒にやる人たちがいたので「こんにちわ」と言ったら、みんなが一斉に「おはようございます」といったので僕はふざけて、からかっているのかと思った。あとでセンパイが、芸人は昼でも夜でも(おはようございます)と言うんだよと教えてくれた。そして、そこの仕事は何とか無事に終わった。最終日の夜、前出の興行師が又やって来て「次の仕事もう決まってるの」と聞いた。「いや決まってません」と言うとその人は・・・・・・・・・<次回に続く>

目次に戻る