第15回・作 藤本精一(元ワゴンマスターズ)

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<キャバレーのバンマス> 近頃は少ししか残っていませんが、以前、各繁華街には沢山のキャバレーと云うのがあった。そしてそこには大抵、九人から十五人位のジャズバンドと、五人編成位のコンポやハワイアンバンドが入っていた。そして主なバンドの方は、毎日日替わりで来るショーの、バックをつとめる事になっていた。私どものやっているカントリーウエスタンと云う業界の、人を養えるキャパシティーは非常に小さいので、時にはあぶれてしまう時がある。そんな時僕は、よくキャバレーのバンマスと云うのをやっていた。その世界に入ったきっかけは・・・

以前神田の駅のそばに三船音研というのがあり、三船さんと云う人がそれを仕切ってた。彼は若いミュージシャン志望の人たちを沢山面倒みていて、それらを組み合わしては、いくつものバンドをつくり、方々のキャバレーにまわしてた。そして彼は、各バンドから面倒見料として、出演料の一割を取っていた。彼の面倒見はとてもよく、沢山の若者が集まっていた。僕はよく彼に頼まれて、そこでトレーナーと云うかコーチャーと云うかそんな事をしていた。その頃僕は、大野義夫さんと一緒にカントリーメイツというバンドでやっていたのですが、何かの都合で大野さんは、バンドと離れて他でも仕事をする事が多くなった。それでバンドはバンドで独立して、ゲストの歌手などを使って仕事をしてた。その時僕はバンマスという事になっていた。

しかし或るときプロダクションがバンドをキープするのを止める事になったので、僕は困って三船さんに相談すると、彼は「丁度いいや・・ふじモッちゃん・・・蒲田のロイヤルやるかい、今月の半ば頃にテストがあるよ。」と言った。それから店の要望はロック出来る歌謡コーラスで、ギャラは一ヶ月五十万で六ヶ月契約だといった。そこで僕はバンドのみなさんに相談すると、「やろうじゃないか」と云う事になった。しかしどの程度の質の演奏をすれば、それらの所で通用するのか、初体験なのでわからず不安だった。それでその当時、みんなに好かれていた曲のうち、三十曲位を選んで、もとはコーラスでないものにも僕流にコーラスをつけ(殆どは、ソロの唄とバックコーラスのスタイル)全員うたに参加して、一生懸命練習した。その他ポピュラーなジャズナンバーや、プレスリーのロック、僕のフィドルをフィーチャーしたムーディーなスロールンバ、それにケイジャン風にアレンジした、「旅姿三人男」などを引っさげてテストにのぞんだ。

結果はわが方の圧倒的勝利に終わった。「あんなの出されちゃたまんねえや、ヴァイオリンまで入っちゃってよ」と、他のバンドのメンバーがぼやいているのを、僕は耳にした。しかし当然の結果だと思う、なぜって他のバンドは、唯のピアノトリオにおざなりのコーラスをつけたの、明らかにロックバンドで、感性が違うのに、無理して演歌をやっている様なのだったりしたからです。

そんなやこんなで、何とか僕等の新しいバンドはハナバナしく出発した。そのバンドの名前はサンズ・オブ・ワゴンマスターズというのでした。これはテストを受ける時、「ふじモッちゃん何という名前で出す?」と三船さんが言ったので、アメリカのサンズ・オブ・パイオニアズというグループにヒントを得て、それにワゴン・マスターズにあやかって、その場で僕が決めたのです。その頃、わが国にキャバレーは何千とあったでしょうが、ウエスタンバンドが専属なんて云うところは、他になかったのではないでしょうか。<次回に続く>

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