第14回作・藤本精一

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<うちのオバーチャン> うちの祖母は、明治も前半の生まれですが、年寄りなのに何でもよく知っていた。ことわざでも世の中の色々なことでも、よく知っていて、何回も話してくれたので僕にとってとても為になった。彼女は、後に四谷の雙葉町に引っ越して、雙葉高等女学校となった築地の高等仏和女学校の出身だった。そこは全寮制で、先生は殆ど外人だったらしいので、生活のかなりの部分で、フランス語を使っていた様である。そして躾けもフランス流であった。和食は一切無いので、いつも味噌汁を作っては、パンと一緒に食べたと言っていた。また、一日中靴を履かされて、足がむれるのと、先生がやたらキスするのでキモチがわるくて、毎晩、井戸端で足とほっぺたを洗っていたと言っていた。彼女はセンレイを受けて、クリスチャンなのにいつも「牧師さんて可笑しいよ、天国に行ったこともないのに、天国から帰ってきたみたいな話をするんだよ」と笑っていた。

<松谷先生> そのオバーチャンが何回も僕に話したハナシの中に松谷さんという叔母の女友達のボーイフレンドの話があった。それは上野の音楽学校(現芸大)の卒業記念演奏会のとき、彼はあがりキッテしまい何回リピートしてもエンディングにもって行けず、途中で立ち往生してしまった。それで、彼が自信をなくして、もう音楽をやめるといって落胆していた時、叔母や叔母の仲間が、彼をはげまして、立ち直らせたというハナシである。ところが、僕が本牧中学というところに入ったら、なんとその人が音楽のセンセイであった。いつだったか僕は、音楽の時間に、わかりきっている話ばかりなのでつまらなくなって、英語の本を拡げていたら、急にポンと本で後ろから頭を叩かれた。センセイは後に立っていて、逐一、僕のやっている事を見ていたのである。そして、「まつのさんというのは君のねーさんか」と言ったので「叔母です」といった。それからズーっとたって、戦後になって、僕がウエスタンという音楽をはじめてから、米軍のベースキャンプに仕事で行ったら、彼がそこのジャズオーケストラのバンマスだった。そして変わりバンコにやった。その後もよく一緒になった。それからまた何十ねんも過ぎて、僕はギンザの或るクラブに専属で出ていた。そしてなんかの用があって、そこのクラブのママの家に行ったとき、彼女の結婚式の写真を見せてもらったら、松谷さんが写っていたので、「これ松谷さんじゃないですか」と聞くとママは、「あらそうよ知ってるの・・仲人よ」と言った。ママは松谷さんに歌を教わってたそうです。

前回まで・・